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エコ(eco)とは何でしょうか?
一般には「環境に優しい」といった意味で使われていると思います。
ecoを英語辞典で引くと、ecoは接頭辞であり、語源としてはギリシャ語の「住居」を意味していることが分かります。つまり、われわれがカタカナ語として使うエコはいわゆる和製英語です。
ecoを接頭辞にした単語にはecology(生態学)やeconomy(経済)などがあります。
このエコロジーから現代のエコという言葉が生まれたことが想像できます。生態系維持といったニュアンスでしょうか。エコノミーを意識してか、エコロジーには反企業(反体制)といった意味合いがあったようですが、「持続可能な開発」やCSRといった動きが出てきたことで政府や企業活動の中に取り込まれています。これに対する批判的言葉としてはグリーンウォッチングがあるでしょうか。
本当に環境保全に対して動いているのか、持続可能な開発をできているのか、ただのポーズに過ぎないのか、簡単な議論にはならないでしょう。
結局、人間活動を送る上で基盤となる地球環境は安定して欲しいし、欲求を満たす経済環境は機能して欲しいわけです。求め続けた欲望の先で自らを食らうことになったとしても、それは生物としての業だと達観的に捉えることも可能ですが、相反する環境を求め続けることも人間らしいのではないでしょうか。
落語は人間の業の肯定である、と立川談志師匠も言いました。
「地球に優しい」らしい行為をすること自体に満足するのではなく、2つのエコについて問い続ける姿勢を失ってはいけない、それがエコに対する姿勢(attitude)だと私は思っています。
P.S.綺麗ごとだけでなく、もう少し尖ったことも書かねば、発言する(ブログを書く)意味がないのではないか、という葛藤もありますが、尖り続ける自信がないので、凄く遠回しに意味していることが何となく受容器に触れる方がいるかもなぁ、ぐらいに留めておきます。
I’d just be the catcher in the rye. That’s all I’d do all day. That’s the only thing I’d really like to be.
もう少し弊社の仕事内容が伝わる記事も書かねば、とも思っております。
All right. Come on.
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
有限会社アイ・エス・オー 長友
木から林檎が落ちるのが引力で、 (寺山修司『邪宗門』劇中台詞より) |
新型コロナウイルスは怖いですね。
もし自分自身が新型コロナウイルスに感染していたら、誰によって感染させられたか猜疑心ばかりが大きくなりそうです。
何が正しいんでしょうか? 症状が出ていなくても新型コロナウイルスに感染していたクラスターを生む原因になりうります。ネズミ算のように増えているのが現況なんでしょう。
簡単に個人で感染の検査ができるようになったら、病院があふれかえります。重症患者が病院に行きつけなくなるリスクがあります。
追いつけない程、法整備から態勢作りまで、大量にやることがあるようです。
SARSがありました。MERSがありました。
リスクヘッジという点では3.11東日本大震災がありました。
歴史から学ぶことはあります。
最悪の事態を想定して行う(準備する)ことは、常時においては後塵を拝します。
資本主義と共産主義、グローバリゼーションとローカリゼーション、揺れ動く均衡点、波に揺られながら何が見えているのでしょうか。見たいものを見る、何を見てきたのでしょうか。
私は揺れ動きながら個の構成(表現)をおし進めて行った。失われた空間を取りもどすことによって背面も側面も生きづいてきた
大野一雄「言葉の断片」 |
日常に戻るために何ができるか、それを意識して行動するしかできることはありません。
愛する人がいて、食べるものがあり、眠る場所がある
これだけで幸福が得られるはずなのに
誰もが愛し愛されることにたどり着かない
恋を繰り返し、魂を汚し、自己愛に帰結する
自分を守るために他人を悪く言い、傷つけ、いつも被害者意識があり、その総意として戦争を起こす
愛はあるのか…存在するのか…
ドラマ「最終話 LOVE」『世紀末の詩』より
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
有限会社アイ・エス・オー 長友
片付いていて綺麗だという話ではなく、美しさについて話したいと思います。
日本人の美意識を語る時、川端康成『美しい日本の私 その序説』谷崎潤一郎『陰翳礼讃』が挙げられるでしょうか。
電気のない薄暗い室内と屏風の金色についての説明を読んだときは芸術作品の鑑賞動線や配置についてもっと注意を払わなくてはならない、すべてが芸術装置だと意識付けされました(蝋燭の灯りを想像するとファラデーの『ロウソクの科学』にも飛び火しそうですが)。美術館はそうしたものの最たるもので、美術館自体の建築家から知らなければとも思い、建築物にも関心を抱くようになりました。『金閣寺』ほど狂気さはありませんが、白井晟一作品が好きで長崎県にいったときは建物を見に行きました。
“狂気の”という形容詞を英語にしたとき”ルナティック(lunatic)”と訳すことができます。ルナはローマ神話の月の女神でラテン語の月に由来します。月の魅惑さに取り憑かれたんではないかと思える建築物に桂離宮の月波楼があります。月を鑑賞するために作られた構造をしている建物です。「月点波心一顆珠(月は波心に点じて 一顆の珠)」、池に映る月をも愛でることができるようで、風流さがあります。ムーンリバーという曲もありますね。『ティファニーで朝食を』のオードリーも美しいです。カポーティーの短編の技巧も美しいですかね。ムーンリバーとなると、ムンクの絵画も思い浮かびます。宮崎県は東側に海岸があるので、水平線からの月の出を見ることができます。日の出ばかり取り上げられますが、夜の水平線から月が昇ってくる様は美しいですよ(事前に月の出の時刻を調べないと、夜に見れません。私は満月で夜に月の出が起こる日を調べて見に行きました。年に何回とないので見に行くのは意外と難しいです)。
と、延々と出てきます。
狂気の方向に向けると、アングラ的な美、こちらは心を動かされることと美しいと思うことを重ねる必要も多少あるかもしれません。この辺りは現代美術でも求められる美観かもしれません。
ただ、自然も必ず美しいとは限りません。
恐山や富士の樹海と聞くと、山や森なのに美しいとは思わないでしょう。
神木や境内の木々には美しさと畏れが同居します。欧州だと森に魔女が住んでいます。
西洋では自然は支配するもの、日本では自然は共存するものと説明した文章を書いたのは誰でしたでしょう?
ハイネ『流刑の神々』には「教会は古代の神々を(中略)今や地上の古い神殿の廃墟や魔法の森の暗闇のなかで暮らしをたてている悪霊たちであると考えている」とあります。それでも、イルミネーションは16世紀ルターが森の中で木々の間から星が見える光景を再現しようとしたのが始まりとあるように、森の中にいてもまやかしではなく美しいものは美しいと感じることはできたようです。聖職者であったことや美の対象が星であったことも無視できないでしょうが。
花田清輝『海について』には「海のうつくしさというようなものは、19世紀の発明にかかるものであって(中略)あの青い水も、白い波も、ブロンドの砂原も、灰いろや黄いろの岩も(中略)むしろ、恐怖すべきものとして、つとめて避けられてきたのだ」とあります。汎神論論争からのロマン主義、つまり(古典的)キリスト教を基盤にした世界が壊されたことで、”流刑の神々”の土着文化的自然愛が再発見されたということでしょう。
薄暗い森にお化けが住んでいると思えば不気味に見えるし、神様のようなものが宿っていると思えば美しく見えるわけです。これが屏風であるし、川端康成のスピーチにも現れるわけですね。
デュシャンが芸術とは新しいものの見方を創造することといった趣旨の発言をしていたと思うし、これらは正義を語る時にも同じ切り口で語れるわけですが、この情報が氾濫した世界で何を指針にどこへ向かえばいいのか悩むところではあります。
どこにいても何者であっても何かがしやすくなった世界であるとともに、このつかみどころのない世界は、気が付いたら溺れそうでもあります。
そういう点では私の場合、現在の仕事に根を張り続ける制約条件があることで、目的達成を最大化しやすいのかもしれません。
風呂敷の畳み方が分かりません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
有限会社アイ・エス・オー 長友