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夏期休業のお知らせになります。
8月9日土曜日~8月17日日曜日 
となります。
「であること」とは、物理的にはすなわち「粒子」であり、「すること」とは、すなわちプリゴジーヌの言う「生成」ではないか。
(中略)
古典的世界は「粒子」であり、近代世界は「生成」なのである。
(中略)
解剖学というのは、死体を扱う。死体には「生成」はなく、運動がなく、時間がない。(中略)「形態学」というくらいで、目を使うのである。
(中略)
私から見れば、目が先か、耳や運動覚が先か、という問題なのである。
(中略)
世界を見ているのは、それが物理化学的世界であろうが、社会であろうが、われわれの脳だ、ということである。したがって、脳の方に目と耳の分離があれば、やがてその分離は、われわれの「考え」のどこかに顔を出す。だから、世界は「古典的」になったり、「近代的」になったり、「停滞」したり、「進歩」したりするのである。
(中略)
いかなる真理も、すなわちいかなる脳も、「静的と動的な傾向を同時に持つ」からである。
(中略)
視覚と聴覚とは、別に「対立する」感覚ではない。とくにヒトの場合、両者は言語として、特異的な結合関係に至るのである。
養老孟司『カミとヒトの解剖学』
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