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カテゴリー別アーカイブ: 独り言

トップ画像の説明1

弊社のトップページには、内海のアコウ、樹脂ペレット、関之尾の滝がスライド表示されます。

 

意図としては、宮崎の植物と美しい景観を乗せることで、宮崎の自然環境を守ることへのメッセージをこめている、これがストレートな見方になります。

もう一方の見方としましては、すべての写真に再生への願いを込めている、というのがあります。

アコウにしても滝にしてもキーワードは蛇です。私はアコウに蛇の姿を重ねました。滝と蛇を結びつけるのは古くから文献があります。蛇は脱皮をすることから再生と結びつける考えがあります。

 

蛇というのは目、鱗、手足のない姿、とぐろ、脱皮、一部の種に存在する毒などから、古来、忌避され、神にも悪にもされてきました。これで雌雄同体なら更に神話化されたでしょう。雌雄同体といえばナメクジですが、、、この世になかなか完璧なものはありませんね。

水辺に近いところに生息していることが多いので水にまつわる神話にもよく登場します。蛇口がまさにですね。他にも、とぐろの姿が山の神にもなるし、更に農耕の神にもなっています。

蛇から龍(ドラゴン)に結びつくのも面白いのですが、日本や中国の龍には翼はないけれど、西洋ドラゴンには翼があるのは文化がよく表れている気がします。アステカのケツァルコアトルは羽毛のある蛇ですね。

また、虹がなぜ虫偏かという説明に蛇は龍となる際に空に描かれる弧からというのがあります。

他にも、ギリシア神話の名医アスクレピオスの杖には蛇が巻き付いています。従って医療のシンボルマークにもなっています。薬学になると杯になり、ヒュギエイアの杯と呼ばれます。

これが2匹の蛇が巻き付いた杖になると、ヘルメースのケーリュケイオン(カドゥケウス)になり、商業や交通のシンボルになります。一橋大学の校章にもなっていますね。

2匹の蛇だけが互いに巻き付くと、これは交尾の姿で、しめ縄です。尾を噛んで円を描けばウロボロスです。

と、象徴化の例は枚挙に遑がないです。

 

物語としては、スサノオノミコトによるヤマタノオロチ退治エピソードがすぐに思い浮かびやすいですかね。構図がペルセウスによるメデューサ退治に似ています。比較神話学ではアンドロメダ型神話といいます。ストーリー型で類型する場合ですね。もっと抽象化すれば、数学の群論を用いて、演算子で写像して関係性のみを抽出してやることで一つの類型により多くの神話を取り込んでいけますが、省略します。

ヤマタノオロチ退治で面白いのは、スサノオに退治を頼んだ老夫婦の名前はアシナヅチとテナヅチで、それぞれ「手のない蛇」「足のない蛇」という意味で、これは蛇同士の戦い(新国家と旧国家の戦い)とする説をあげる方もいます。この新旧については他にも色々と古事記・日本書紀内で切り込め(以下略)
聖書だって青銅の蛇によって、炎の蛇による苦難を乗り越えた逸話があります。

そんなこんなで、蛇が透けて見えることで、様々な意味をこめることができることもあり、トップ画像には蛇を連想できたアコウと滝を持ってきました。

 

アコウについては次の投稿で説明します。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友

Le plus important est invisible…

On ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux.

 

 

 

 

 

Bien sûr…

Ce qui est important, ça ne se voit pas…

暗闇にてこそ見つかるもの

私は砂漠にいたから      一滴の水の尊さがわかる
海の中を漂流していたから   つかんだ一片の木ぎれの尊さがわかる
闇の中をさまよっていたから  かすかな灯の見えたときの喜びがわかる
(中略)
いまも師は  大きな目をむき  まだまだおまえに分からせることは
行きつくところのない道のようにあるのだと
愛弟子である私から手を離さない
そして
不思議な嫌悪と   親密さを感じるその顔を
近々とよせてくるのだ

 (塔和子「師」)

 

今だからわかることはないでしょうか。

 

諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。

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暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する。

(谷崎潤一郎「陰翳礼讃」)

 

今だから見えることはないでしょうか。

 

もしあの陰鬱な室内に漆器と云うものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光りの夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減滅されることであろう。

(谷崎潤一郎「陰翳礼讃」)

社会的人間

人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。

(太宰治/『桜桃』)

 

桜桃忌に書こうと思っていたら、どんどん日が経ってしまいました。

善い事と悪い事を判断するというのは実に難しいものであります。
BLMのデモについてのコメントも難しいものです。日本人ばかりの中で育ってきた土壌とは違うのでしょう。
控えめに意見を言っても埋もれていく情報社会です。だから、自分の立場を意思を表明するには大きな力がいります。学者にしても一歩離れたところから前提条件によって、、、ではなく、一本の柱に骨を埋める覚悟で行き、一点集中で突き進まないと並の天才では、本物と同じ土俵に立つことすらできません。といった、ロジックで政治参加し、意思表明するのとはまるで違うことを実感しております。

ヒロイックになって、それを土壌に生きていくこともできます。
求めるものがいるかぎり、それは喜びを与え、社会に貢献していることになります。どんな仕事であれ、仕事をしている間は社会的人間なのでしょう。但し、色々な社会があり、社会人となると狭義の社会になります。物を測る尺度もたかだか有限、数え上げられるほどでしょう。
狭義の社会から出ても、また人が集まれば社会が構築されるでしょう。アリストテレスのポリス的動物として完成をみようとする強い意志をもって出る人はいないでしょう。

弱きを助け強きを挫く、実存を語れる人間ではありません。弱きを知り、弱者として歩むことでの成功の秘訣を説いたのは野村克也監督だったでしょうか。そのように語れる人間でもありません。

 

オウムがあり、9.11があり、3.11があり、COVID-19があり、命の尊厳とはかなさを問う機会があり、それでも私たちは生きていて、、、
このように言葉でラベリングして、得体の知れなさを枠に押し込んだブラックボックスはパンドラの箱に玉手箱になるでしょうか。そうしなければ、前に進めないでしょうか。

 

⼈間のあり⽅を総合的にとらえて⾃分を磨いていくことを”魂のこと”をするというふうにいいたいと思います。神なしでも”魂のこと”をする場所を作る”新しい⼈”の決意で⼩説は閉じられるわけですが、僕にとっては”神なしでも”の部分が重要です。僕はずっと”信仰を持たない者の祈り”ということをいってきましたが、それは信仰を持つ可能性があるという意味を含んでいたわけですね。『宙返り』を書いて、そういう気持ちから切り離されて、本当に⾃由になった気がします。

(大江健三郎)

 

スピノザに影響を受けただけあって汎神論的姿勢(attitude)にあるようですが、ウィトゲンシュタインにしても永井均先生にしても痛みについての感覚は失いたくないように思います。

本ブログは架空の空間に住所を置いています。時々、現実のビジネスの話を、きれいごとばかりの問答をしたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友

不条理な創造

「すまない」
「当然だ。君のような人間はいつもすまないといってる。しかも、いうのがおそすぎるんだ」

レイモンド・チャンドラー/清水俊二訳『THE LONG GOODBYE 長いお別れ』

 

カミュの『ペスト』を読んだことがあるのかないのか覚えていないのですが、GWに読もうと思ったら売切れでした。

 

ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』の中では、免疫の保有者か否かが世界が大きく動く時に関わっていたことを説明する部分があります。これをどう捉えるか。

 

歴史研究の基本は「いつ何が起こったのか」といういわばタイミングの問題である。同じように見えることでも、二十世紀に起こったことと十九世紀に起こったことを混同することはできない。「歴史は繰り返す」といわれることもあるが、時間は刻々と動いており、同じ事象が繰り返すことはありえないのである。

入江昭『歴史を学ぶということ』

 

生きるとは何でしょう。不条理が眼前にあるときだからこそ感じるものがあります。
ハイデッガーは死に向き合った生き方の重要性を説きました。

 

きらめく陽光は、たしかに、自然への愛をさそう。そこには感覚の陶酔があり、生の祝祭がある。だが、すべてをつらぬくかに思える陽光も、物体に当れば影をつくりだすことを、カミュは見落していない。(中略)生の悦びが同時に死へのあくまでも醒めきった凝視でもあるという、徹底的な矛盾の同時的現存

カミュ/清水徹訳「あとがき」『シーシュポスの神話』

 

ほんとうに治療薬はできるのでしょうか。

この後の世界はどうなるでしょう。
行き過ぎたグローバリズムと警鐘を鳴らし、行き過ぎたローカリズム(ナショナリズム)へ傾くこともありえるのでしょうか。
「行き過ぎた」とは何でしょう。ナチズムが頭をよぎらないこともありません。

必要な人に必要なだけ資源配分できる経済設計のためには、完全にマイナンバーによる紐づけが必要になるでしょう。すべてが過ぎ去った後には、管理社会体制が築き上がる可能性もあります。
補償制度を見誤れば、寧ろ感染者になった方が良いと博打に出る人も出てくるかもしれません。モラルハザードは制度設計において重要です。
そんな悠長なことを言わず、まずは今を乗り越えることが最優先でしょうか。

 

全地は驚いてその獣に従い、竜を拝んだ。竜が獣に権威を与えたからである。また人々は獣も拝んで言った。「だれがこの獣に比べてられるだろうか。だれがこれと戦うことができるだろうか」
(中略)
また私は、別の獣が地から上ってくるのを見た。(略)この獣は、最初の獣が持っていたすべての権威を、その獣の前で働かせた。

「ヨハネの黙示録」『聖書 新改訳2017』

 

考える題材はいくらでもあります。学ぶことはいくらでもあります。
それが今であり、より良い機会なのかもしれません。

 

 

“初めにことばありき”  なぜなの、パパ?

映画タルコフスキー『サクリファイス』劇中台詞

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

有限会社アイ・エス・オー 長友

Bill Evansを聴きながら

言わずと知れたジャズピアノトリオThe Bill Evans TrioのアルバムにMoon Beamsがあります。moonlightとmoonbeamsは月光のニュアンスが違うのですかね。不可算名詞と可算名詞が与える印象そのままでしょうか。
スーパームーンですから今宵はジャズアルバムMoon Beamsを聴くわけです。

 

国立天文台観望会も新型コロナウイルスの影響で暫く中止なのですね。10日はM67の観望計画があったようですが、、、月は6/27予定です。
アルビレオは7/25だけなんですね。10年前くらいは夏になるとアルビレオを2回はやっていた気がしますが。

 

夜景画の黄いろい窓からもれるギターを聞いていると 時計のネジがとける音がして 向うからキネオラマの大きなお月様が昇りだした

稲垣足穂「月から出た人」『一千一秒物語』

 

余談のままで本投稿は終わります。ありがとうございました。

有限会社アイ・エス・オー 長友

失われゆく宇宙

悲しい、という思いが日増しに強くなります。

新型コロナウイルス感染で苦しむ方が沢山います。お亡くなりになられた方もいます。

人が死ぬということはひとつの宇宙が失われることだ、と言ったのは誰だったでしょうか。

 

天には星はあんまり見えんけど
そのぶん東京は地上に星が降るんだねえ・・・
「天の星は死人のためのもの」
遠くにありて美しい

「地上の星は生身の人間が汗水たらして作るもの」
綺麗なだけではないかもしれんけど
血の通うパワーと温度がある

芦原妃名子『砂時計』

 

無症状者、無症状の潜伏期間があることでの感染拡大というのは未知の経験です。悲しいのではなく、怖いのでしょうか。

 

白きマスクを外して白き言葉あり
落葉積むわが墓ぞ見ゆまぼろしに
枯木にもたれたひとのねがひは音楽
クリスマスカアドにも書けりさびしやと

    中村胖『青い紳士』

 

無症状のまま死ぬわけではありません。発熱と全身倦怠感、呼吸困難といった症状の出る肺炎になります。

 

そのとき私は、私の肋骨の階段を、一歩一歩匐い昇ってくる一匹の蝶を意識した。
蝶は嗜んで花粉を愛する。多分、今、私の肋骨の一枚一枚にも、何か芳しい花粉が
付着しているのかも知れなかった。そして、この蝶の口吻の彈絛が、あるいは頻り
と、伸びたり縮んだりしているのかも知れなかった。だが、私の疲労と倦怠は、よ
うやく槌りついたこの脆弱な昆虫の、ほんの花蕋ほどの触感すら、容易に払いのけ
ることさえ出来なかった。
私は立ち上がって雑木林の丘を歩き出した。私は持てあましたこの昆虫を、どこか
林の下草の中に、宿らせようとしていたのだ。

乾直惠『肋骨と蝶』

 

春はやってきました。
春は呼んでいるのに、蝶は身体の外に出ていかないのでしょうか。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

有限会社アイ・エス・オー 長友

藍 -JAPAN BLUE-

 

木から林檎が落ちるのが引力で、身寄りのない男と女が雑踏の人ごみのなかで引き合うのがニュートンの法則だというなら、この世は引き合い求めあいの納豆さながら、糸地獄、切っても糸が切れる訳じゃない。じたばたするな、かくごをきめろ。糸を切るより、操ってみろ。糸を吐き出す蚕のように、親子兄弟親戚一同、引くとみせてはあやつられ、引かれると見せてはたぐりよせ、くるくるまわる血の色の因果応報糸車。

(寺山修司『邪宗門』劇中台詞より)

 

新型コロナウイルスは怖いですね。
もし自分自身が新型コロナウイルスに感染していたら、誰によって感染させられたか猜疑心ばかりが大きくなりそうです。
何が正しいんでしょうか? 症状が出ていなくても新型コロナウイルスに感染していたクラスターを生む原因になりうります。ネズミ算のように増えているのが現況なんでしょう。
簡単に個人で感染の検査ができるようになったら、病院があふれかえります。重症患者が病院に行きつけなくなるリスクがあります。

 

追いつけない程、法整備から態勢作りまで、大量にやることがあるようです。
SARSがありました。MERSがありました。
リスクヘッジという点では3.11東日本大震災がありました。
歴史から学ぶことはあります。
最悪の事態を想定して行う(準備する)ことは、常時においては後塵を拝します。
資本主義と共産主義、グローバリゼーションとローカリゼーション、揺れ動く均衡点、波に揺られながら何が見えているのでしょうか。見たいものを見る、何を見てきたのでしょうか。

 

私は揺れ動きながら個の構成(表現)をおし進めて行った。失われた空間を取りもどすことによって背面も側面も生きづいてきた

大野一雄「言葉の断片」

 

日常に戻るために何ができるか、それを意識して行動するしかできることはありません。

 

愛する人がいて、食べるものがあり、眠る場所がある
これだけで幸福が得られるはずなのに
誰もが愛し愛されることにたどり着かない
恋を繰り返し、魂を汚し、自己愛に帰結する
自分を守るために他人を悪く言い、傷つけ、いつも被害者意識があり、その総意として戦争を起こす
愛はあるのか…存在するのか…
ドラマ「最終話 LOVE」『世紀末の詩』より

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

有限会社アイ・エス・オー 長友

 

 

美しい産業廃棄物業 その序説

片付いていて綺麗だという話ではなく、美しさについて話したいと思います。

日本人の美意識を語る時、川端康成『美しい日本の私 その序説』谷崎潤一郎『陰翳礼讃』が挙げられるでしょうか。
電気のない薄暗い室内と屏風の金色についての説明を読んだときは芸術作品の鑑賞動線や配置についてもっと注意を払わなくてはならない、すべてが芸術装置だと意識付けされました(蝋燭の灯りを想像するとファラデーの『ロウソクの科学』にも飛び火しそうですが)。美術館はそうしたものの最たるもので、美術館自体の建築家から知らなければとも思い、建築物にも関心を抱くようになりました。『金閣寺』ほど狂気さはありませんが、白井晟一作品が好きで長崎県にいったときは建物を見に行きました。
“狂気の”という形容詞を英語にしたとき”ルナティック(lunatic)”と訳すことができます。ルナはローマ神話の月の女神でラテン語の月に由来します。月の魅惑さに取り憑かれたんではないかと思える建築物に桂離宮の月波楼があります。月を鑑賞するために作られた構造をしている建物です。「月点波心一顆珠(月は波心に点じて 一顆の珠)」、池に映る月をも愛でることができるようで、風流さがあります。ムーンリバーという曲もありますね。『ティファニーで朝食を』のオードリーも美しいです。カポーティーの短編の技巧も美しいですかね。ムーンリバーとなると、ムンクの絵画も思い浮かびます。宮崎県は東側に海岸があるので、水平線からの月の出を見ることができます。日の出ばかり取り上げられますが、夜の水平線から月が昇ってくる様は美しいですよ(事前に月の出の時刻を調べないと、夜に見れません。私は満月で夜に月の出が起こる日を調べて見に行きました。年に何回とないので見に行くのは意外と難しいです)。

と、延々と出てきます。
狂気の方向に向けると、アングラ的な美、こちらは心を動かされることと美しいと思うことを重ねる必要も多少あるかもしれません。この辺りは現代美術でも求められる美観かもしれません。

ただ、自然も必ず美しいとは限りません。
恐山や富士の樹海と聞くと、山や森なのに美しいとは思わないでしょう。
神木や境内の木々には美しさと畏れが同居します。欧州だと森に魔女が住んでいます。
西洋では自然は支配するもの、日本では自然は共存するものと説明した文章を書いたのは誰でしたでしょう?
ハイネ『流刑の神々』には「教会は古代の神々を(中略)今や地上の古い神殿の廃墟や魔法の森の暗闇のなかで暮らしをたてている悪霊たちであると考えている」とあります。それでも、イルミネーションは16世紀ルターが森の中で木々の間から星が見える光景を再現しようとしたのが始まりとあるように、森の中にいてもまやかしではなく美しいものは美しいと感じることはできたようです。聖職者であったことや美の対象が星であったことも無視できないでしょうが。
花田清輝『海について』には「海のうつくしさというようなものは、19世紀の発明にかかるものであって(中略)あの青い水も、白い波も、ブロンドの砂原も、灰いろや黄いろの岩も(中略)むしろ、恐怖すべきものとして、つとめて避けられてきたのだ」とあります。汎神論論争からのロマン主義、つまり(古典的)キリスト教を基盤にした世界が壊されたことで、”流刑の神々”の土着文化的自然愛が再発見されたということでしょう。

薄暗い森にお化けが住んでいると思えば不気味に見えるし、神様のようなものが宿っていると思えば美しく見えるわけです。これが屏風であるし、川端康成のスピーチにも現れるわけですね。

デュシャンが芸術とは新しいものの見方を創造することといった趣旨の発言をしていたと思うし、これらは正義を語る時にも同じ切り口で語れるわけですが、この情報が氾濫した世界で何を指針にどこへ向かえばいいのか悩むところではあります。
どこにいても何者であっても何かがしやすくなった世界であるとともに、このつかみどころのない世界は、気が付いたら溺れそうでもあります。

そういう点では私の場合、現在の仕事に根を張り続ける制約条件があることで、目的達成を最大化しやすいのかもしれません。

風呂敷の畳み方が分かりません。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

有限会社アイ・エス・オー 長友

思いで残ったヤマモモ

先日、打合せでテクノリサーチパーク内のお客様のところに行って参りました。
弊社にとっては重要な打合せで、前日は緊張で眠れず、徹夜して資料を作りました。横になっても何かが頭をよぎってその説明を考えつつ、資料内に載せるかどうかなど悩んでいると、時間はあっという間でした。打合せが決まった日から、必要な情報の整理をしていったのですが、書いては消し、書いては消し、の繰り返しでした。このブログもですが、修正の繰り返しです。
打合せは難しいです。イメージとしてですが、弊社の業務内容の説明を、成文法みたいに基本論理構造メインでいくか、判例法みたいに具体的実例メインでいくか、と言えばいいでしょうか? 理路整然と作業内容と予算のことを述べるのは重要ですが、こういう打合せのときこそ、弊社のことを知ってもらえたらと思っています。そうした話をするのかしないのかはお客様の求めている情報や打合せの内容(空気)にもよりますが。。。

そんなことより、本稿で説明したいのは、ヤマモモです。

  

テクノリサーチパークは立地場所から明らかなのですが、山を削り取って作った工業団地です。この工業団地内の公園にそれはそれは立派なヤマモモの木があります。単幹の幹周は日本一ではないか(※1)とも言われるほど、太い幹を持った巨樹です。

元々山にあったご神木で雨乞いなども行われたようです。工業団地を作るときに地元の人々の願いで切り落とさず、団地内に移植した地元の人々の思いがつまった木です。

幹に近づいて上を見上げるとワイヤーが張り巡らしてあるのが見え、このヤマモモが巨樹であると同時に古樹なのだと実感できます。幹も割れがあるのに腐っていません。幹の周り部分が生きるのに必要な部分ですが、衰えることなく壮大さを保っている様に心を打たれます。

 

弊社がお世話させていただいている木に、御客様のシンボルツリーのように佇んでいるヤマモモがあります。年に1回高所作業で形を整えるのですが、風で折れた枝や幹に穴ができているのを見つけます。これに対する適切な処置というのは調べれば調べるほど意見が多様で悩みます。ずっと元気に生きてくれればと思っていますが、ヤマモモの声をどれだけ聞き取れているのか分かりません。その木も随分と歳をとっているように見えるので、私の見落としで何かがあってはいけないと気がかりです。私なんかが左右できるほどの存在でないほど立派な木ですが。

いろんな公園の木を時々眺めに行きます。お世話をしている方は何をしているだろうか、どれだけ剪定しているか、など。私が携わる木に何ができるのか教えてもらいに眺めるんです。切ったら雑菌が入るリスクは生まれますが、切らなければお客様に支障をもたらします。切るのは怖いです。私が関わったために枯れてしまう木がありませんように、お客様とずっと在る樹でいてくれたらなぁ、と思うんです。

 

弊社のウェブページのトップに出てくるアコウの話、トトロでお馴染みのクスノキの話、もできる機会があったらしたいなぁと思います。ハイネの『流刑の神々』から森の話がしたいし、花田清輝の評論から自然の話がしたいなとは思っています。

(※1)池田隆範『神話と歴史で綴るみやざき巨樹紀行102』鉱脈社、2013年。

最後までお読みいただきありがとうございました。

有限会社アイ・エス・オー 長友