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カテゴリー別アーカイブ: 独り言

秋をつかみ損ねて

お昼には汗をかくことはあるものの、朝夕はすっかり冷えてきました。
昨日のように雨が降ると単に長袖では鳥肌が立ちます。

 

 

 

 

 

 

 

 

とはいえ、狂い咲きが桜やサツキに見られ、栄養が失われて旬の時期に元気がない状態にならないか心配になります。

秋ですが蚊も未だ多く、現在では蚊も秋の方が過ごしやすいのでは? と思います。太宰の哀蚊ももう少し先ですかね。

とりわけあの晩の哀蚊の御寝物語は、不思議と私には忘れることができないのでございます。そう言えばあれは確かに秋でございました。
「秋まで生き残されている蚊を哀蚊と言うのじゃ。蚊燻かいぶしは焚たかぬもの。不憫ふびんの故にな」
ああ、一言一句そのまんま私は記憶して居ります。

太宰治「葉」

狂い咲きよりも哀花の方が私にはしっくり来ます。
哀蚊の時は、通常は蚊取り線香を焚くのに、秋は我慢せよとなるのに対して、哀花の時は、通常は枯れるまで愛でるのに、秋は摘み取ることになるので、表面的な行動としては真逆な対応になりますが。

狂い咲きは葉の中で作られるはずのアブシジン酸がきちんとできていないことが原因のひとつでもあるので、剪定のタイミングや害虫防除等を考えることも必要かもしれません。

最後までお読みいただきありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友

九月はあおい空

あっという間に9月が終わりそうです。
それ以上に今年が終わりそうで、終わらせたい作業が間に合うか、、、
常に前に進みたいと思っていますが、荷物も多くなっているように思います。

 

マリー・Aの思い出 (ベルトルト・ブレヒト、野村修訳)      

九月はあおい空、その月のあの日に
ひっそりと、若いスモモの木の根もとに
あの子を、蒼いひっそりとしたこいびとを
ぼくは抱いた、優しいゆめを抱くように。
ぼくらの上にはすみきった夏空に
ひとひらの雲、じいっとぼくは見つめた
白くて、気のとおくなるほど高い雲、
また眼をあげると、もう消えてしまってた。

東京は渋谷、シネマライズで鑑賞した「善き人のためのソナタ」にも登場した詩。
盗聴していた秘密警察が、盗聴先の作家から盗んだブレヒトの詩集を朗読することで物語も心も動く。主人公の心も見ていた私たちの心も、、、たぶん。
あの日は何か徹夜で仕事をやり遂げて、ご褒美に大好きなシネマライズに行って、ポスターを眺めて「善き人のためのソナタ」に惹かれて。。。
ものすごく眠かったけど、その分、向こうの世界に行けたような気がした。

 

シネマライズはもうなくなりました。
1階が大好きでしたが、2階のみになって少し足が遠のき、、、宮崎に帰り、、、
最後に見た映画は何だったでしょうか。。。
直感で選んだ舞台挨拶付の映画で自分の席以外は関係者ばかりじゃないかと驚いたときもありました。

ランドマークだったHMVがなくなった衝撃は宮崎から山形屋がなくなるのと同じじゃないかと思いましたが、シネセゾン、今年にはアップリンク渋谷がなくなりました。
恵比寿ガーデンシネマも休館中です。友人たちと外で見た映画は良き思い出です。
ニューシネマパラダイスを見ると思い出します。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友

アインシュタインの関係式(原子の実在性)

前回の話題に挙げた、アインシュタインの関係式を説明します。

例えば、水質汚染で汚染物質が液体で水中に拡散していく場合、拡散していくのが汚染物質の粒子(分子)であると設定し、当該現象の分析モデルを構築していく、、、と思います。
廃水処理をするのであれば、ブラックボックス化して数値から単に処理できると結論づけるよりも、理論的に組み立てて処理工程で起こっている現象を数式で記述できると安心できるのが、私の性格ですが、一般にみなさんはどうでしょうか。

今では当たり前のように物質を構成するのは分子ないし原子と義務教育でも習いますが、分子は目に見えないような小さなサイズです。従って、直接的に存在証明できません。しかし、分子を前提としてモデリングし算出された値が、実際に起こった現象の測定値と一致すれば、前提条件に間違いがない、分子は存在すると言えるでしょう。

アインシュタインの関係式がこの存在証明方法になります。水中拡散現象を分子の拡散運動としてモデリングし、それが正しいか測定できるようにしました。これによって、原子・分子が存在すると科学的に言えるようになったので、非常に大きな功績になりました。

金澤輝代士先生の「速習・確率過程入門~拡散現象のモデリング~」という講義ノートがウェブ上にありまして、こちらを参考にアインシュタインの関係式を説明していきます。

こちらを利用する理由はモデルでホワイトノイズ項を入れているからです。これは完全に私の好みの問題です(ここではノイズについて説明しません。きれいなバラツキ状態とでも思ってください)。

本稿ではノーテーション説明も省略します。乱暴に感じる記述も、ウェブ上のどこかにちゃんとした説明があるでしょうから、そこで補完してもらえれば。。。
それぞれの式は図示等の視覚化がしやすいので、イメージしながら数式の動きを楽しめると思います。

 

それでは、原子の実在を確認しましょう!

 

ブラウン運動する任意の粒子が時間tで位置xにいる確率をP(x,t)としたとき、(連続)確率密度関数で表す。

粒子数の質量保存則より、

レイノルズの輸送定理より空間積分と時間微分を交換

これが連続の式。1次元で考えているので

フィックの法則(流出量は濃度勾配に比例)が成り立つので

連続の式とフィックの法則の式より

ブラウン粒子の拡散現象の確率密度関数は正規分布に従う。
x(t)の初期条件をx(0)=0としたとき

これがデルタ関数の性質を満たすのであったり、フーリエ変換を使っていたりすることは金澤先生の資料の方で。

ランジュバン方程式(ブラウン粒子の運動方程式が水の粘性摩擦と水分子の衝突によるノイズで表せる)より

(ボルツマン定数はKB=R/NA、ホワイトノイズξG
表現を変えて

平均をとるとさらに両辺にxをかけると

であり、
1次元であるからエネルギー等分配則より

が成り立つので

この微分方程式を解く
と置く。

t=0でf=0より

fを積分してt=0で<x>2=0より

時定数は十分時間が経った(tが大きくなった)とき、ほとんど無視できるので

平均2乗変位より分散であるから

粒子が半径aの球とすれば

以上より、アボガドロ定数を以下のように表せる

右辺の全ての大きさは分かる、もしくは測定できるので、アボガドロ定数が分かります。これが成り立っていれば、原子・分子の存在を仮定することは間違っていないことが分かります(逆にアボガドロ定数が6.02×1023/molとして原子の半径を推定することができる)。

原子・分子を想定することで初めて質量保存則や運動方程式が描けるので、それらの式から導かれた値が現実の数値と一致することは、原子・分子の存在証明になるわけです。

ちなみに、アインシュタインの論文では浸透圧と摩擦力のつり合いから説明しています。
アインシュタインは「私の主目的は,一定の有限な大きさの原子の存在を確証する事実を発見することであった」と説明しています。

ブログに数式を載せるのは難しいですね。どう載せるのか。。。注釈で後述して流れを切らないのは見やすくはありますが、何となく今回はそれより前半は不必要に途中式を載せました。

原子の世界の続編があるかもしれません。

また修正加筆するか、何かリアクションを受けたらPDFファイルを入れます。
※1 微分方程式を解いて拡散係数を求める流れも大雑把ですが、加筆しました。
色々と参考にしたんですが、けっこう誤植やモデルに違和感があるものが散見されましたし、ランジュバン方程式が違うことで拡散係数に質量が入ったものもありましたね(そう言う私もミスがあるかもしれません)。微分方程式を教えるのが目的であれば、モデルの正確性は重要ではないでしょうし。解析学自体はそこそこやったものの、流体力学や統計力学を基礎から勉強したことはないし、アインシュタインの関係式を知ったのも最近なので、モデルの厳密性の議論や発展のさせ方についてはいつの日にか。。。粒子のサイズについては分析したいかもしれません。
それより、拡散モデルを発展させて分析したいですね。
取りあえず、雨の多かった盆休みに1歳児と戯れながら、自分なりに一生懸命頭の中でモデルの世界に潜り込んでインプットしていたので、8月中にアウトプットできてよかったです。

余談ですが、

とFokker-Plank方程式の形をしていれば、


になります。c=0にすれば本稿です。こっちの方が伊藤積分に慣れしたんだ方は安らぎを得ますかね?

それでは最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友

真ん中に

さて、そろそろこの流れ出る生を自ら満喫している風景を額縁にはめ込むことになった。
(中略)
そう、これが思い出となる、というのはあらかじめわかるものだ。
たった今しがた、強い夏の日射しの下で一面まぶしい光におおわれたボクらの世界も、もう、半分追憶の夏雲におおわれて、輝きを失った半透明の色彩の中でひっそりと静まり返っていた。
それはもうすっかり思い出の世界に入っていたのかもしれない。
誰だって、描こうとしない、描かれることのない、スケッチブックの一頁があるはずだ。
ボクはいつのまに描くのを止めていた。
でも気を取り直したシメ君は、夢中になって頭上の沸き立つ夏雲を描いていた。

(町田純『ヤンとシメの物語』)

いくら着替えてもすぐに汗びっしょりになる夏がやってきています。
真夏の草刈作業は靴下まで汗でびちょびちょです。
昨年は朝5時から朝9時までの早朝草刈もやりました。熱中症は避けたいものです。

わたしたちだって、今、この話をしている最中でさえ、もうすでに過去の幻影みたいなものなのよ
(中略)
あなたは未来の思い出の中に生きているわ。これから先も、きっと

(町田純『草原の祝祭-ヤンのヨールカ―』)

いくら時間があっても足らない毎日です。
でも、誰にも訪れる死への準備もしていきたいと思います。その一つは私にとって読書であり、お金(生活)を生み出さないものです。
研究していた時は朝から晩まで一つの事に専念していて時間の足らなさ、自身の能力や努力の限界を感じていましたが、現在は一つの事に専念できる連続した時間を得られる難しさを感じています。
水への汚染について、この1年ちょこちょこ論文を読んでいます。
拡散系だから昔とった杵柄でアインシュタイン方程式をさらさらやりたかったんですが、ごまかしながら勉強した気になっています。

未来では足りない
古いもの 新しいものでは足りない
永遠が 部屋の真ん中で
聖なる樅の木にならなくてはならない……        

(町田純『草原の祝祭-ヤンのヨールカ―』)

 

今日一日は、こんな気持ちの良い日は、せめて目を開けて見渡してくれないか。そして、じっと見つめてくれないか。この草原を、この森を。

(町田純『ヤンとシメの物語』)

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友

年末年始 営業のご案内

たぶんそれは正しいとか正しくないとかいう基準では推しはかることのできない問題だったのだろう。つまり世の中には正しい結果をもたらす正しくない選択もあるし、正しくない結果をもたらす正しい選択もあるということだ。このような不条理性──と言っても構わないと思う─を回避するには、我々は実際には何ひとつとして選択してはないのだという立場をとる必要あるし、大体において僕はそんな風に考えて暮らしている。起こったことはもう起こったことだし、起こっていないことはまだ起こっていないことなのだ。

村上春樹『パン屋再襲撃』

 

年末年始の営業のご案内です。
ぎりぎりになって申し訳ないのですが、12月30日(水)~1月5日(火)は休ませていただきます。

今年も大変お世話になりました。来年もどうか是非宜しくお願い致します。

 

弊社は再資源化を目指しており、そのためにはお客様の分別作業や正確な情報提供が重要になっていきます。ヒューマンエラーはあります。それでも資源物として扱っていたものの、不純物が混ざっていたり、想定外のものであったりすれば、悪意なく汚染を生みます。つまり、他の資源物もすべて廃棄物化してしまうのです。だから、信頼関係が重要であり、私たちはお客様とのコミュニケーションを大事にしたいと考えています。

COVID-19という未曾有の世界的な大感染が起き、今なお、事態は深刻化しております。人間の慣れは順応化であり鈍感化であります。初期の恐怖心を持ったままでは精神が耐え切れない方がいるでしょう。だから、慣れは重要です。その一方で、いろいろな大義名分のもとに感染を広げる原因行動をしていきます。

何を得るのか、何を失うのか、いろんな物差しで、様々な天秤で測ります。合理的判断であるように行動するのか、直感的判断に従うのか。
生命の尊厳性をとるか、生命の質をとるか、、、となるほどの永久的1回性の意思決定問題ではないかもしれません。

何を選んでも、いくらかの喜びを得て、いくらかの犠牲を生みます。
未来は分かりません。
過去を正しく分析できるかも分かりません。

分からない、分からない、分からないの先に、「私が在るということ」が見つかることを願います。
進んで、進んで、進んだ先に、「私が在るということ」が見つかることを願います。

エヘイェ・アシェル・エへイェ (I am that I am)
(出エジプト記3章14節) 

今年も年を越せるであろうことに感謝し、来年を迎えられるであろうことに感謝します。

今年最後の投稿になるか分かりませんが、
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友

トップ画像の説明2

原稿ストックがなくなりそうですが、トップ画像の説明は終えておきたいので、本投稿ではアコウについて説明します。

正直、宮崎の植物を選択するのに、ましてや会社のトップ画面にアコウを持ってくる企業は他にないのではないでしょうか? 宮崎の樹木ならフェニックスがでしょうね。フェニックスも不死鳥ですから、再生のイメージが簡単に連想できますし。

キャッチコピーの作り方に違和感を持たせるのが大事といいますが、私としてはその違和感をアコウに託しました。ただ、未だ誰もアコウについて尋ねる方がいないので、このアコウについて取り上げたいと思います。

 

アコウはアコウクワ科イチジク属で、漢字で書くと赤榕です。榕の意味はそのままガジュマル・アコウのクワ科イチジク属を表しているようです。亜熱帯植物です。特徴は気根を枝から伸ばして張り巡らすことで、土台となる岩や木を覆いつくします。ヤドリギは寄生木と書くように宿主の中に食い込んで栄養を吸いますが、アコウ・ガジュマルは覆いかぶさるだけです。覆いかぶさって元々あった木は枯れていくので、絞め殺しの木とも言います。共生ではないんです。。。だからヤドリギみたいに幸福をよぶ木と呼ばれたり、クリスマスにヤドリギのの下でキスなんてロマンチックなエピソードは出てきたりしません。

 

宮崎の宮交ボタニックガーデン青島には2本のアコウが互いの気根を絡ませている姿から夫婦アコウとよばれるアコウがあります。更に平成19年に絆の木と命名されたそうです。

宮崎県野島神社の内海のアコウは国の天然記念物に指定されています。天然記念物に指定されているアコウは現在6カ所です。そのうち3カ所が神社の境内にあります。

神社といえば注連縄で、絞め殺しの木という呼称と相まって、蛇を連想しました。注連縄が交尾だとすれば生命感がありますが、アコウは。。。

野島神社は「浦島太郎をまつる」と書かれ、御祭神は塩筒大神(塩、造船、生花、料理の神)、猿田彦神(商売繁盛、安産、長寿祈願、五穀豊穣、交通安全の神)、住吉三前大神:上筒大神、中筒大神、底筒大神(漁業の守護神、縁結び、子授けの神)です。また塩筒大神は塩土老翁神、塩椎神ともあり、ツチ(ヅチ)が出てきますが、深入りしません。

和歌山県美浜町には竜王神社のアコウがあるようです。学生時代に行けば良かった。。。和歌山県は中上健次氏の紀州熊野サーガの舞台ですから、血脈のように映るかもしれません。

クスノキからトトロなら、アコウからはどんな姿が描かれるでしょうか。奄美大島ではケンムン(妖怪)が潜んでいると言われたようですが。

潜伏といえば、潜伏キリシタンが長崎の黒島でアコウによる防風林を築いたことから黒島の集落として世界遺産に登録されています。

 

再建中の首里城、その首里城正門歓会門前には、戦時中に焼けたアカギにアコウが覆っています。木曵門の前にもアコウが生えているそうです。

 

言葉遊びとも連想ゲームとも言われるかもしれませんが、結局、アコウが好きだからトップ画面に持ってきたのかもしれません。いや、言いたいことは、生命力(再生)です。

さて、次は弊社の働き方の魅力について書こうと思います。
性善説の立場というわけではないのですが、基本的にはきちんと信頼できる仕事を社員が果たせる環境を目指したいと思っております。弊社の仕事が好きになることが何よりも大事だと思います。その環境づくりですね。

あと、昔やっていた不確実性下の政策について思い出しながら、書いてみようかなとも。未曽有の状況下、確率分布が定まらない中、政府はどういうタイミングで政策を行うべきか。また、政府の情報発信によって、国民が政策実施前に織込み済みの行動をすることで、、、あまり時間はかけられませんね。いつも自己満足ですが、たまには数学的記述をやりたいとも思うわけです。前者ならリーディングペーパーそのままに書くだけになりそうですが。

ほぼ徹夜続きなので、眠気覚ましにいくつか論文を漁ってテンションを上げたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友

トップ画像の説明1

弊社のトップページには、内海のアコウ、樹脂ペレット、関之尾の滝がスライド表示されます。

 

意図としては、宮崎の植物と美しい景観を乗せることで、宮崎の自然環境を守ることへのメッセージをこめている、これがストレートな見方になります。

もう一方の見方としましては、すべての写真に再生への願いを込めている、というのがあります。

アコウにしても滝にしてもキーワードは蛇です。私はアコウに蛇の姿を重ねました。滝と蛇を結びつけるのは古くから文献があります。蛇は脱皮をすることから再生と結びつける考えがあります。

 

蛇というのは目、鱗、手足のない姿、とぐろ、脱皮、一部の種に存在する毒などから、古来、忌避され、神にも悪にもされてきました。これで雌雄同体なら更に神話化されたでしょう。雌雄同体といえばナメクジですが、、、この世になかなか完璧なものはありませんね。

水辺に近いところに生息していることが多いので水にまつわる神話にもよく登場します。蛇口がまさにですね。他にも、とぐろの姿が山の神にもなるし、更に農耕の神にもなっています。

蛇から龍(ドラゴン)に結びつくのも面白いのですが、日本や中国の龍には翼はないけれど、西洋ドラゴンには翼があるのは文化がよく表れている気がします。アステカのケツァルコアトルは羽毛のある蛇ですね。

また、虹がなぜ虫偏かという説明に蛇は龍となる際に空に描かれる弧からというのがあります。

他にも、ギリシア神話の名医アスクレピオスの杖には蛇が巻き付いています。従って医療のシンボルマークにもなっています。薬学になると杯になり、ヒュギエイアの杯と呼ばれます。

これが2匹の蛇が巻き付いた杖になると、ヘルメースのケーリュケイオン(カドゥケウス)になり、商業や交通のシンボルになります。一橋大学の校章にもなっていますね。

2匹の蛇だけが互いに巻き付くと、これは交尾の姿で、しめ縄です。尾を噛んで円を描けばウロボロスです。

と、象徴化の例は枚挙に遑がないです。

 

物語としては、スサノオノミコトによるヤマタノオロチ退治エピソードがすぐに思い浮かびやすいですかね。構図がペルセウスによるメデューサ退治に似ています。比較神話学ではアンドロメダ型神話といいます。ストーリー型で類型する場合ですね。もっと抽象化すれば、数学の群論を用いて、演算子で写像して関係性のみを抽出してやることで一つの類型により多くの神話を取り込んでいけますが、省略します。

ヤマタノオロチ退治で面白いのは、スサノオに退治を頼んだ老夫婦の名前はアシナヅチとテナヅチで、それぞれ「手のない蛇」「足のない蛇」という意味で、これは蛇同士の戦い(新国家と旧国家の戦い)とする説をあげる方もいます。この新旧については他にも色々と古事記・日本書紀内で切り込め(以下略)
聖書だって青銅の蛇によって、炎の蛇による苦難を乗り越えた逸話があります。

そんなこんなで、蛇が透けて見えることで、様々な意味をこめることができることもあり、トップ画像には蛇を連想できたアコウと滝を持ってきました。

 

アコウについては次の投稿で説明します。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友

Le plus important est invisible…

On ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux.

 

 

 

 

 

Bien sûr…

Ce qui est important, ça ne se voit pas…

暗闇にてこそ見つかるもの

私は砂漠にいたから      一滴の水の尊さがわかる
海の中を漂流していたから   つかんだ一片の木ぎれの尊さがわかる
闇の中をさまよっていたから  かすかな灯の見えたときの喜びがわかる
(中略)
いまも師は  大きな目をむき  まだまだおまえに分からせることは
行きつくところのない道のようにあるのだと
愛弟子である私から手を離さない
そして
不思議な嫌悪と   親密さを感じるその顔を
近々とよせてくるのだ

 (塔和子「師」)

 

今だからわかることはないでしょうか。

 

諸君はまたそう云う大きな建物の、奥の奥の部屋へ行くと、もう全く外の光りが届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠い遠い庭の明りの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返しているのを見たことはないか。その照り返しは、夕暮れの地平線のように、あたりの闇へ実に弱々しい金色の明りを投げているのであるが、私は黄金と云うものがあれほど沈痛な美しさを見せる時はないと思う。

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暗いと云うことに不平を感ぜず、それは仕方のないものとあきらめてしまい、光線が乏しいなら乏しいなりに、却ってその闇に沈潜し、その中に自らなる美を発見する。

(谷崎潤一郎「陰翳礼讃」)

 

今だから見えることはないでしょうか。

 

もしあの陰鬱な室内に漆器と云うものがなかったなら、蝋燭や燈明の醸し出す怪しい光りの夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減滅されることであろう。

(谷崎潤一郎「陰翳礼讃」)

社会的人間

人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。

(太宰治/『桜桃』)

 

桜桃忌に書こうと思っていたら、どんどん日が経ってしまいました。

善い事と悪い事を判断するというのは実に難しいものであります。
BLMのデモについてのコメントも難しいものです。日本人ばかりの中で育ってきた土壌とは違うのでしょう。
控えめに意見を言っても埋もれていく情報社会です。だから、自分の立場を意思を表明するには大きな力がいります。学者にしても一歩離れたところから前提条件によって、、、ではなく、一本の柱に骨を埋める覚悟で行き、一点集中で突き進まないと並の天才では、本物と同じ土俵に立つことすらできません。といった、ロジックで政治参加し、意思表明するのとはまるで違うことを実感しております。

ヒロイックになって、それを土壌に生きていくこともできます。
求めるものがいるかぎり、それは喜びを与え、社会に貢献していることになります。どんな仕事であれ、仕事をしている間は社会的人間なのでしょう。但し、色々な社会があり、社会人となると狭義の社会になります。物を測る尺度もたかだか有限、数え上げられるほどでしょう。
狭義の社会から出ても、また人が集まれば社会が構築されるでしょう。アリストテレスのポリス的動物として完成をみようとする強い意志をもって出る人はいないでしょう。

弱きを助け強きを挫く、実存を語れる人間ではありません。弱きを知り、弱者として歩むことでの成功の秘訣を説いたのは野村克也監督だったでしょうか。そのように語れる人間でもありません。

 

オウムがあり、9.11があり、3.11があり、COVID-19があり、命の尊厳とはかなさを問う機会があり、それでも私たちは生きていて、、、
このように言葉でラベリングして、得体の知れなさを枠に押し込んだブラックボックスはパンドラの箱に玉手箱になるでしょうか。そうしなければ、前に進めないでしょうか。

 

⼈間のあり⽅を総合的にとらえて⾃分を磨いていくことを”魂のこと”をするというふうにいいたいと思います。神なしでも”魂のこと”をする場所を作る”新しい⼈”の決意で⼩説は閉じられるわけですが、僕にとっては”神なしでも”の部分が重要です。僕はずっと”信仰を持たない者の祈り”ということをいってきましたが、それは信仰を持つ可能性があるという意味を含んでいたわけですね。『宙返り』を書いて、そういう気持ちから切り離されて、本当に⾃由になった気がします。

(大江健三郎)

 

スピノザに影響を受けただけあって汎神論的姿勢(attitude)にあるようですが、ウィトゲンシュタインにしても永井均先生にしても痛みについての感覚は失いたくないように思います。

本ブログは架空の空間に住所を置いています。時々、現実のビジネスの話を、きれいごとばかりの問答をしたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

(有)アイ・エス・オー 長友